過労死等防止対策推進全国センター

過労死・過労自殺に関する国連勧告について

弁護士 須田 洋平

1 はじめに

国連の機関である社会権規約委員会は,2013年5月17日,日本政府が同委員会に提出した政府報告に関する総括所見を公表した。同委員会は,総括所見の中で,過労死及び過労自殺について具体的に言及しつつ懸念を表明し,勧告をした。同委員会が日本の過労死,過労自殺問題に言及するのは初めてのことであり,国際機関が過労死,過労自殺問題に対する勧告をして改善を促すのは極めて異例のことである。
そこで,本稿では,社会権規約委員会及び政府報告制度についての基本的な説明をした上で,同委員会が過労死,過労自殺問題に対する懸念を示し,勧告するに至った経緯及び同委員会による勧告の意義について述べることとする。

2 社会権規約委員会と政府報告制度について

国連で1966年に採択された社会権規約(経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約)は,国際的に人権として認められた権利のうち,社会権的側面を持つ各権利の保障を定めている。例えば,労働の権利は社会権規約の6条で保障されている。また,社会権規約7条は,安全かつ健康的な作業条件や休息,余暇,労働時間の合理的な制限を含む公正かつ良好な労働条件を享受する権利を保障している。
社会権規約の締約国となった国は,同規約に定められた人権を保障する義務を負うことになる。なお,日本は,1979年に同規約を批准し,締約国となった。
同規約は,規約に定められた人権を保障する義務を締約国に果たさせるため,経済社会理事会(国連の常設機関)に締約国が定期的に規約の履行状況を報告(政府報告)する義務を課し,同理事会がかかる報告を審査するものとした(同規約16条)。しかし,より効果的な履行状況の審査を目的として,1985年の同理事会決議1985/17により,社会権規約委員会が設立されることとなった。
同委員会は,18人の独立した専門家により構成される。各専門家は,高潔な人格を有し,人権分野で卓越した能力を有するとされる者の中から経済社会理事会による選挙により選ばれることとなっており,任期は4年である。
締約国は,社会権規約の締約国になってから2年以内に第1回政府報告を提出し,その後は5年ごとに政府報告を提出するものとされている。政府報告は,上記のとおり,社会権規約委員会に対し,同規約の履行状況を報告するものである。同委員会は,政府報告の審査に際し,政府報告では触れられていない事項に触れたり,政府報告の内容の正確性を争ったりする市民社会からの報告(カウンターレポート)も受理し,参考にする。日本では,日弁連(日本弁護士連合会)が提出するカウンターレポートが最も有名である。
政府報告の審査の前日,同委員会はNGOとの打ち合わせを実施し,カウンターレポートを提出したNGOの意見を聴取する。この前後にNGOが同委員会の委員に対してロビイングを展開することもある。
政府報告の審査では,政府代表団が政府報告の内容を説明した後,委員が政府代表団に対して質問をする。政府代表団は,質問に対する回答を翌日の返答セッションにおいて行う。返答セッションでは再度質疑応答がなされる。
審査及び返答セッションでの質疑応答を踏まえ,政府報告に対する総括所見が数週間以内に出されることになる。
総括所見では,社会権規約の履行について進歩のあった側面を評価する一方,懸念事項を表明し,懸念事項を踏まえた勧告を行う。締約国は,勧告が出された一定の事項について通常1年以内にフォローアップをすることを求められる。
社会権規約委員会を含む国連の人権条約機関の総括所見で出された勧告には法的拘束力はなく,勧告を無視しても罰則はないが,人権条約機関の勧告には道義的な重みがあり,これを無視することは国際社会における締約国の評価を低下させることになる。

3 労働環境に関する国際的な人権保障

前述のとおり,社会権規約7条は,「この規約の締約国は,すべての者が公正かつ良好な労働条件を享受する権利を有することを認める。」と定め,保障される労働条件の内容として,安全かつ健康的な作業条件,労働時間の合理的な制限等が挙げられている。このことは,長時間労働,ハラスメント等を原因とする劣悪な職場環境により健康を害されない権利が国際的な人権として認められていることを意味している。
日本は批准していないものの,1957年に発効したILO(国際労働機関)条約47号は1条(a)で週40時間労働の原則を定めている。同条約の締約国が15か国に留まり,かつ,1962年に採択された労働時間の短縮に関する勧告(ILO勧告116号)は週40時間労働の原則を段階的に到達すべき社会的基準に過ぎないものとしているものの,日本と同等の経済先進国の多くでは1週間の労働時間が35時間から40時間の間(例えば,フランスは35時間,アメリカは40時間)で定められていること,及び,日本の労働基準法においても週40時間労働が原則とされていること(労働基準法32条1項)からすれば,労働時間の合理的な制限の内容は,日本との関係では週40時間労働の原則を前提としたものとなるというべきである。

4 社会権規約委員会の前回勧告

2001年,日本の第2回政府報告に対する審査が行われ,同年9月24日,社会権規約委員会は同政府報告に対する総括所見を示した。かかる総括所見において,同委員会は,日本が公的部門及び私的部門の双方で過大な労働時間を容認していることに重大な懸念を表明し(E/C.12/1/Add.67,パラグラフ19),労働時間を削減するために必要な立法上及び行政上の措置をとることを勧告した(同パラグラフ46)。さらに,同委員会は,セクシュアル・ハラスメントが発生していることに対する懸念を表明し(同パラグラフ16),セクシュアル・ハラスメントの事例に関する詳細な情報及び統計データを提供すること,及び,国内法を厳格に適用し,セクシュアル・ハラスメントについて責任を有する者に対し効果的な制裁を実施することを勧告した(同パラグラフ43)。
他方,1990年代には日本における過労死が深刻問題として受け止められ,2000年3月に過労自殺事案のリーディングケースともいえる電通事件の最高裁判決が出されたことにより,2001年の時点で過労自殺も社会問題として既に日本国内で注目されていたにもかかわらず,社会権規約委員会は,上記総括所見において,過労死,過労自殺ついて具体的に踏み込むことはなかった。

5 日本政府による第3回政府報告

日本政府は2009年12月になって,社会権規約委員会に対し,第3回政府報告を提出した。その中で,日本政府は,2006年の男女雇用機会均等法改正が2007年4月に施行され,事業主のセクシュアル・ハラスメント対策が義務化されたことを指摘した。さらに,労働時間の削減に関する勧告への対応として,2006年4月から施行されている労働時間等の設定の改善に関する特別措置法に基づき,労働時間等の設定の改善に関する労使の自主的な取組を促進していること,具体的な行政上の措置として,36協定で定める労働時間の延長の限度等に関する基準の遵守による時間外労働の削減を推進していることを指摘した。
他方,2001年から2009年までの間に,長時間労働,ハラスメント等の職場環境をめぐる問題の状況は大きく変化していた。2001年12月12日に「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」という通達(基発第1063号)が出され,同日以降,過労死についての認定基準が変更になったこともあるが,過労死として労災認定された件数は,2001年度の58件から,2009年度には142件へと倍以上に増加した。さらに,この間,過労うつ,過労自殺とも呼ばれる精神障害事案が急速に増加した。労災として認められた精神障害事案の数であるが,2001年度には70件であったものが,2009年度には268件へと4倍近くになった。さらに,このうち過労自殺事案は,2001年の31件から81件へと増加し,2.6倍となった。このように,2009年までの8年間で,過労死,過労自殺の労災認定件数が大幅に増加し,過労死,過労自殺の問題が一層深刻になったのである。
また,厚生労働省の労働局に寄せられた労働相談のうち「いじめ・嫌がらせ」を理由としたものが,2002年の約6600件から2009年には約35700件へと5倍以上に増加し,職場におけるパワーハラスメントが深刻化した。そして,2009年には,東京地方裁判所が,日研化学事件において,パワーハラスメントによる自殺に対する労災認定を初めて裁判上認めるに至った(東京地判平成19年10月15日労判950号5頁)。
しかし,日本政府の第3回政府報告には,過労死,過労自殺に関する言及は一切なされなかった。また,同報告は,パワーハラスメントが職場で深刻化していることに対する言及も避けた。

5 社会権規約委員会の勧告とその背景

社会権規約委員会は,上記第3回政府報告を審査し,パラグラフ17(E/C.12/JPN/CO/3)において以下のとおり懸念を表明し,勧告をした。
「委員会は,締約国による雇用主の自発的行動を促進する措置はとられているものの,相当数の労働者が過度に長い時間労働を続けていることに懸念をもって留意する。また,委員会は,過重労働による死及び職場における精神的嫌がらせによる自殺が発生し続けていることに懸念を表明する。
委員会は,安全かつ健康的な労働条件と労働時間の合理的な制限についての労働者の権利を保護する本規約第7条の義務に沿った形で,締約国が長時間労働を防止するための措置を強化し,労働時間の延長についての制限の不遵守に対して制裁が確実に適用されるようにすることを勧告する。また,委員会は,締約国に対して,必要な場合には,職場における全ての形態の嫌がらせを禁止し,防止することを目的とした法令及び規則を採用することを勧告する。」
すなわち,社会権規約委員会は,日本政府が第3回政府報告で指摘した取り組みを不十分であると断じた。そして,前回総括所見では一切言及がなかった過重労働による死,精神的なハラスメントによる自殺に言及した。同委員会が懸念を表明した「過重労働による死」に過労死が含まれるのは当然であるが,少なくとも長時間労働による精神障害発症を原因とする自殺(狭義の過労自殺)も含まれるというべきである。
さらに,前回の総括所見では,セクシュアル・ハラスメントに対する懸念のみが表明されていたが,今回の総括所見は職場におけるセクシュアル・ハラスメントへの懸念を引き続き表明した(同パラグラフ20)上で,「職場における精神的嫌がらせ」というより広い概念に言及し,職場における精神的嫌がらせによる自殺に対する懸念を表明している。これは職場におけるパワーハラスメント等によって精神障害を発症し,自殺に至った事案を念頭に置いたものというべきであり,この部分によってパワーハラスメント事案のような広義の過労自殺事案もカバーされているというべきである。
そして,同委員会は,勧告内容として,長時間労働を防止する措置を強化すること及び職場におけるあらゆる形態のハラスメントを禁止,防止することを目的とした立法,規制を講じることを挙げている。すなわち,同委員会は,過労死及び過労自殺を防ぐための立法措置を含む具体的措置を講じるよう日本政府に求めている。したがって,同委員会は,日本政府に対し,少なくとも過労死防止基本法の制定を勧告したものと理解すべきである。
さらに,同委員会は,労働時間の延長に対する制限に従わない者に対して一般予防効果のある制裁を適用するよう勧告している。現在,最高裁判所に,過労死,過労自殺として労災認定を受けた労働者がいる企業名の公表を求める裁判が継続しているが,かかる企業名の公表は過重労働に対する制限に従わない企業に対する一般予防として大きな効果を有するものであるから,過労死,過労自殺を発生させた企業名の公表を上記勧告が後押ししていると理解することも十分可能である。
このように,社会権規約委員会が過労死,過労自殺について踏み込んだ背景には,過労死,過労自殺事案の遺族,過労死弁護団のメンバーらが同委員会の委員と面会し,日本における過労死,過労自殺をめぐる状況が2001年の前回の総括所見当時から一層深刻化している事実を説明したことが大きい。
さらに,同委員会は社会権規約の解釈の指針として一般的意見を公表しているが,2005年11月に同委員会が採択した一般的意見18は,社会権規約6条で認められる労働の権利にいう「労働」とは,「人間の基本的権利、ならびに安全な労働条件及び報酬に関して労働者の権利が尊重される労働」すなわち「ディーセント・ワーク」であると明示した(一般的意見18・パラグラフ7)。そして,一般的意見18は,同規約7条は同規約6条と相互依存しているとして,同7条の解釈もかかる「ディーセント・ワーク」を踏まえたものにすべきであることを明らかにした(同パラグラフ8)。過労死及び過労自殺はディーセント・ワークに反する労働環境から発生するものであるからすれば,自らが採択したディーセント・ワークに反する事態と十分に向き合っていない日本政府に対する厳しい姿勢を打ち出すべく,社会権規約委員会が過労死及び過労自殺問題ついて踏み込んだ勧告を行ったとも考えられる。

6 勧告を受けて

前記のとおり,社会権規約委員会の勧告には道義的な重みがあるものの,法的拘束力はない。したがって,日本政府には,勧告に従う道義的義務はあるが法的義務はない。(ただし,社会権規約委員会の勧告を無視することにより,社会権規約上の権利の完全な実現を達成するために行動する約束(同規約2条1項)に違反していると解釈する余地もあろう。そのような解釈からは,かかる勧告無視が憲法98条2項に定める「国際法規の誠実な遵守」に違反するという結論を導く余地があるのではないだろうか。)
この点,日本政府の人権条約機関の勧告に向き合う姿勢に気になる点がある。
2013年6月18日,日本政府は,「慰安婦」問題に関する公人の発言を受けて社会権規約委員会と同じ人権条約機関である拷問禁止委員会が日本政府に対して行った勧告についての認識を問う質問主意書に対し,「(拷問禁止委員会の勧告は)法的拘束力を持つものではなく,拷問禁止条約の締約国に対し,当該勧告に従うことを義務付けているものではないと理解している。」という内容の答弁書を決定した。なお,2009年6月2日には,日本政府が別の人権条約機関である自由権規約委員会の勧告について,「自由権規約委員会の最終見解は法的拘束力を有するものではないが、いずれにせよ、御指摘の勧告については、その内容の当否等を十分に検討の上、政府として適切に対処していきたいと考えている。」と答弁している。
人権条約機関の勧告に関する2013年の答弁書には,2009年の答弁書にあった「勧告については、その内容の当否等を十分に検討の上、政府として適切に対処していきたいと考えている。」という表現が消えている。すなわち,2009年の答弁書には,人権条約機関の勧告を少なくとも検討するという日本政府の姿勢が見られたが,2013年の答弁書には人権条約機関の勧告に対する門前払いの姿勢が見受けられる。すなわち,人権条約機関の勧告に対する日本政府の姿勢が後退しているのである。
過労死,過労自殺問題とは別の論点が理由ではあるが,社会権規約委員会等の人権条約機関が行った勧告に従うことについて日本政府が以前よりも後向きになっている点は懸念材料である。
過労死,過労自殺についての社会権規約委員会の勧告を実のあるものにするには,広く市民社会がかかる勧告の重み及び過労死,過労自殺の実態を理解し,過労死防止基本法の制定に声を上げることが重要である。また,日本政府は社会権規約委員会の委員らの訪問を受け入れていることを踏まえ,同委員会の委員らを日本に招待して過労死,過労自殺の実態に関する情報を共有し,同委員会の委員らを通じて日本の過労死,過労自殺の深刻さを国際社会に発信することにより,国際社会における日本の過労死,過労自殺問題に対する関心を高め,日本政府に同委員会の過労死,過労自殺問題に関する勧告に従うよう促すことも求められよう。

以上